千代ケ崎砲台跡の見学会

明治期、首都防衛のため東京湾口沿岸に砲台群が作られた。
その一つが、浦賀湾入り口の千代ケ崎砲台。
横須賀市により発掘調査が進められ、見学会が開かれた。


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発掘が終わったばかりの左翼観測所。
階段を降りる先で三つある砲座と地下で結ばれている。
写真奥のレンガの塊が観測機器を置いた所で・・・


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その端に空いた穴が伝声管。
侵入してきた敵艦の位置を、砲座に居る射手に伝えるのだ。


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観測所に先立って発掘された第三砲座。
写真のトンネルの先で観測所とつながる。
二つある円座の所に、それぞれ大砲が据えられていた。


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施設はすべてレンガや石で作られた地下構造。
三つある砲座は幅の広い隧道でも結ばれ、所々が露天である。

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雨の当たる所は丈夫な焼き過ぎレンガ(手前)。
雨のかからない奥は普通の赤レンガ。

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大砲の弾を、貯蔵庫から天井裏の砲座へ上げる穴。
滑車のようなものを使って持ち上げたようだ。


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砲座と砲座の間(写真の左手)は、兵隊が寝泊まりした部屋。

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雨水を濾過して蓄えた井戸もあれば・・・

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食事のために煮炊きした煙を抜く換気口(スリット状)もある。

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明治期の砲台と聞いて、もっとチャチイものと考えていた。
レンガや石の積み方が丁寧だし、過酷だっと思うが生活感ある戦争遺跡だ。
子供から中高年と戦争遺跡マニア?で賑わっていた。
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桑田立斉の墓

平山郁夫美術館訪問の2か月前、2005年8月に新潟県新発田市にある相円寺を訪ねている。

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そこに新発田藩士・村松喜右衛門の墓がある。

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その次男が江戸に出て桑田家の養子となり桑田立斉を名乗る。
立斉は、江東区清澄の萬年橋のたもとに小児科医院を開業する。
1857(安政4)年、立斉は幕府の命を受け蝦夷地に赴き、アイヌ人6400人に種痘を施す。

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ジェンナーが牛痘種痘法を発明したのが1796年。
それが日本に伝来したのが1849年。
立斉は緒方洪庵らとともに種痘を広めた功労者。
1980(昭和55)年、WHOは天然痘の世界撲滅宣言を行い、日本でも種痘は法律で廃止された。
立斉の偉業をたたえる書物の数々。


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函館の豪商が平沢屏山に描かせた「蝦夷人種痘の図」
中央右、赤い座布団の立斉がアイヌ人に種痘を施している。
原画は仙台の博物館にあり、その写しはある個人が所蔵し、そのまた写しが大阪大学と北海道大学にある。
(写真は桑田家が寄贈した大阪大学医学部所蔵のもの)


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1868年、立斉は亡くなり浅草に近い台東区今戸の保元寺に眠る。

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その境内に立つ立斉の墓と桑田家の縁起を刻んだ石碑。

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2006年8月、立斉の孫の妻、すなわち私に五葉松を託した義祖母(→こちら)の13回忌が執り行われた。
石碑と墓の前に立つ親族者たち。
義祖母の娘二人(写真中央)は他家に嫁いだので、桑田家断絶の記念写真でもある。


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義祖母の長女(妻の母)は今でも桑田を絶えさせて心苦しいとこぼす。
今の時代、ごく普通のことなのだが。
生涯7万人に種痘を施した立斉の志が医学生の心に通じることを願いたい。


ガラスのうさぎ

中井の畑の最寄り駅はJR二宮駅。
その南口駅前ロータリーに、「ガラスのうさぎ」像がある。

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終戦10日前の8月5日、米軍の艦載機P51が二宮駅に向かって機銃掃射を行った。それにより、12歳の少女の目の前で、その父が亡くなった。
(写真:今も二宮駅ホーム屋根に残る機銃掃射の弾痕)

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少女は、3月10日の東京大空襲で母と二人の妹を亡くしていた。
少女は二宮町の人の助けを借り、父の亡骸を大八車に乗せて、東海道を小田原の焼き場に向かった。
(写真:現在の東海道。当時はもっと松が残っていたと思われる。)

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1977(昭和52)年、両親と妹たちの33回忌に、彼女はこの体験を小冊子にまとめて参会者に配った。
これが出版社の目に留まり、同年12月、「ガラスのうさぎ」として出版された。
その後、映画になり、NHKでドラマ化もされた。

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1981(昭和56)年の命日、二宮町民の募金で「ガラスのうさぎ」像が建立された。像は、ガラス製のウサギを抱いている。
これは、お父さんのガラス工場の焼け跡から、熱で溶けたガラスのウサギの置物が出てきたことから。

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この日の除幕式に、4人の来賓が呼ばれた。
左から、「少女」ご本人の高木敏子さん、一人おいて、映画の少女役・蛯名由紀子さん、一番右がNHKドラマの少女役・高部知子さん。


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感極まった二人。
そうでしょう、当時の出来事を語られたら、だれも涙なくしてはいられない。
(除幕式の写真:撮影者は妻。私は仕事のため除幕式に出席できず。)


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これを機に、像にちなんだ和菓子が作られ、今でも愛されている。
中の白あんがさっぱりとした素朴な味。
ほかに、ウサギの形をした最中もある。


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そのお菓子(だけとも言えるくらい)を作っている「みせ吉本店」。
明治から続く店という。
「ガラスのうさぎ」像から歩いて2分。東海道に面している。

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現在も、町民は「ガラスのうさぎ」の想いを大切にしている。
「平和への想い、千羽鶴にたくして!」と称して、毎年この時期千羽鶴を織り、像に手向けている。

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ところで、機銃掃射の跡が残るのは、真ん中が高い山型の屋根(写真の手前側)のスパン。
その20mほどのスパンが、昔のままの廃レールを再利用した柱、梁、そして木の垂木づくりである。
その前後のスパンは、真ん中がへこんだY字型(写真の奥側)の構造に改築されている。

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二宮町は気候が温暖なことから、以前は「長寿の里」をアピールしていた。今は町総務課を事務局に「平和の願い」をアピールしている。

本来なら全部をY字型の屋根に改築すべきところを、戦争の痕跡が残るスパンは手付かずのまま残した。JRのしかるべき部署の価値判断の正しさ、思い入れに喝采を送る。

追伸:除幕式のあと一人の来賓(男性)はだれだか、ずっと分からなかったが、今回判明した。別の機会に紹介しますのでご期待あれ。

井ノ口墓の前遺跡

中井の畑を耕していたら土器の破片が出てきた。
耕作を始めたころにもいくつか出たが、久しぶりだった。
口径が30cm以上ある壺のようなもの口縁部で、黒く焦げ跡がある。
なぜこんな処から土器の破片が出るかというと・・・

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畑のすぐ東側に秦野と二宮を結ぶバイパス(県道)が通っている。
(中井町内は、片側2車線)


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1982年、バイパス工事に合わせて、上と同じ場所で埋蔵文化財の発掘調査が行われた。
(以下の写真4枚は、発掘調査時のもの)

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その調査により中世の土葬の跡が見つかり、遺体も出た。
遺体の写真ははばかられるので、墓石(五輪塔)に替えた。


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土器(正確には土師(はじ)器)。

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古銭(永楽通宝など全部で12種出たとのこと)。
これら2種の出土品は、当時、自治会主催の見学会用に私が調査団から借りたもの。

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現在、調査地の脇に「井ノ口墓の前遺跡」の石碑が建っている。
ここは、数十基の五輪塔が林立する一大墓地だったと想定されている。

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この時の調査報告書が県埋蔵文化財センターにあるというので出かけてみた。
本ブログで取り上げたことのある浦舟水道橋(→こちら)のすぐそばである。
古びた建物は資料庫であり、その隣にセンターの本館がある。


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調査地周辺の埋蔵文化財地図を見ていてビックリした。
赤い星(27番)が発掘調査地で、緑の星が私が借りている畑。
畑は55番と37番の包蔵地に挟まれ、畑から土器の破片が出てくるのはこのためだ。
一方、青い星は私が1982年当時に住んでいたところ。
そうだったのか、埋蔵文化財の上に住んでいたとは!


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開発により多くの埋蔵文化財が破壊されてきた。
次善の策として、調査し、記録し、見学会を開き、ときに現地にモニュメントを残す。
古人の生きた証を知るために。

エルトゥールル号海難事故その2

昨年12月、エルトゥールル号海難事故を取り上げた(→こちら)。
映画に触発され、事故を取り上げた「東の太陽、西の新月」を読んだ。
その中に3人の興味ある人物が出てきた。


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最初の人物は、リチャード・ヘンリー・ブライトン。
事故の22年前の1868(明治元)年、政府が招いた英国人土木技師。
横浜公園に置かれている彼の胸像が見ている先には・・・


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日本大通り。ここに日本初の近代的舗装を導入するなど、横浜居留地の整備に尽力した。

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加えて日本の灯台の父とも言われ、初期の灯台の多くは彼の手になる。
エルトゥールル号が座礁し、生存者が収容された樫野崎灯台しかり。
写真(2014年12月)は犬吠埼灯台であるが、これも彼が建設した。

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二人目は、山下公園近くにあった英一番館に居た増田万吉。
その後、潜水業者となり、潜水服を用いた最初の日本人となる。
彼は、遭難者の遺骸の収容、遺品の回収に無報酬であたった。

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三人目は、山田寅次郎。(寅次郎と聞くと心が躍るが別人)
24歳の彼は全国から義捐金を集め、トルコに届けた。
そのままトルコに18年間滞在し、両国の橋渡しに尽力した。
晩年は茶道の家元としても活躍した。(写真は私の手作りの茶碗)

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ところで、横浜公園(写真奥)の近くに新月をかたどったトルコ国旗を掲げたレストラン「アリババ」がある。
10年以上前、トルコ人のシェフと日本人の奥さんが切り盛りしていたが、今は代替わりしている。

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トルコで最も有名な日本人は山田寅次郎だそうだ。
こうした民間交流が両国の友好を深めてきていたことを知った。
プロフィール

Shige Haru

Author:Shige Haru
●小学校3年生のときの理科の宿題が「季節のたより」
●何の花が咲いた、何の鳥が鳴いていた、初カツオを、あるいはイチゴを食べた・・・と日記風に書き記した。今と違って食材にも季節が感じられた。
●そんな季節を感じられる便りを、八ヶ岳南麓の里と横浜の自宅から、お伝えしていきます(故あって、今しばらくは自宅からが主となっています)。

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